INTRODUCTION

血まみれサム”の異名を持つペキンパーの傑作にして、戦争映画の金字塔!

ベトナム戦争終結から2年が過ぎた1977年。“戦争映画”というジャンルに殴り込みをかけ、戦場描写を一新した革命的作品が映画史に激震を巻き起こしました。西部劇『ワイルドバンチ』(69)、犯罪劇『ゲッタウェイ』(72)等アメリカ映画王道のジャンルで歴史的傑作をものにした孤高の巨匠サム・ペキンパー(1925~1984)が、アメリカ人監督、アメリカ人スターを起用し、敗者ドイツ軍の物語を描くという当時ハリウッドでは実現不可能な大胆不敵さでつくりあげた『戦争のはらわた』。今も多くの映画作家をとりこにしている戦争映画の金字塔が、公開40周年を迎えスクリーンに堂々の帰還!

独ソ戦の死闘を、徹底したリアリズムで描きだす

舞台は、第二次世界大戦下の独ソ戦。1941年から44年にかけてドイツ軍とソ連軍が壮絶な死闘を繰り広げ、ドイツ軍200万以上、ソ連軍1200万以上の死者が出たといわれる狂気の戦場。敵の猛攻にあい絶望的な状況に追い込まれたドイツ小隊の運命がドラマチックに描かれ、観る者は戦場の真っ只中に。16週間に渡る過酷な撮影には150名以上のスタッフが各国から集められ、戦闘シーンではさらにアメリカの撮影隊200名、エキストラ兵士600名が参加。ドイツ軍歩兵連隊についての膨大な資料をもとに戦場のリアリズムを徹底追及。監督の十八番、スローモーションを多用し、血と汗と埃にまみれ、生への欲望が具現化した兵士たちのキャラクター造型の異様な緊張感は、今観ても斬新のひと言。

墓場へと向かう男たちの孤独な戦いと魂の叫び

野武士のようなギラついた殺気を発散するジェームズ・コバーン(『大脱走』)、中間管理職的な疲労が滲み出るジェームズ・メイソン(『スタア誕生』)、見栄っぱりで小心者の上官マクシミリアン・シェル(『ニュールンベルグ裁判』)ら国際色豊かなキャスティング。軍装、戦車、銃器等マニアも驚くち密な時代考証が実現したこの映画は、「戦争とは?」「本当の敵は誰か?」「正義とは?」といった問いを否応なく突きつけます。昨今のCGを多用した作品とは一味違うリアルなアクションに満ちた本物の戦場映画であり、終わりの見えない戦いに疲弊しきった兵士たちの生々しい心情描写は、以後登場する『プラトーン』(86)、『プライベート・ライアン』(98)、『硫黄島からの手紙』(06)といった作品群にも大きな影響を与えました。クエンティン・タランティーノ、北野武、ジョン・ウーらがリスペクトするサム・ペキンパー監督。死にゆく男たちの孤影を終生追い求めた映像作家の魂に、是非酔いしれてください。

戦争のはらわた Cross of Iron

1977年|イギリス=ドイツ|カラー|1:1.85|133分|字幕翻訳:落合寿和
監督|サム・ペキンパー
プロデューサー|ウォルフ・C・ハルトヴィッヒ 脚本|ジュリアス・J・エプスティン/ウォルター・ケリー/ジェームズ・ハミルトン 撮影|ジョン・コキロン 音楽:アーネスト・ゴールド
出演|ジェームズ・コバーン マクシミリアン・シェル ジェームズ・メイソン デヴィッド・ワーナー センタ・バーガー

DIRECTOR

SAM PECKINPAH 監督|サム・ペキンパー

法律一家の次男に生まれる

1925年2月21日、カリフォルニア州フレズノ市で生まれる。本名はデイヴィッド・サミュエル・ペキンパー。父方の祖先は、アメリカ、ペンシルバニアに移住してきたヨーロッパ系移民。祖父は兄弟と共にマデラ郡の山を購入し「ペキンパー製材所」を設立。製作所が売り払われた後もその一帯はペキンパー・マウンテンと呼ばれ続ける。 サムの父デイヴィッド・エドワードは農場でカウボーイとして働き、農場主であり弁護士にして下院議員を務めた町の大物デンヴァー・サミュエル・チャーチの長女ファーン・ルイーズと1915年に結婚。デイヴィッドは弁護士として働き始める。ふたりの間には息子と娘がそれぞれふたりずつ誕生するが、娘たちは養子に出された。祖父や父、そして兄と同じく、次男のサムも当初法律の道を志したが、第二次世界大戦が勃発。43年に海兵隊員として従軍し、終戦を北京で迎える。退役後、故郷のフレズノ州立大学の舞台演出科に入学。ここで出会った女優志望の女性マリーと初めての結婚をする。その後南カリフォルニア大学に転学しここでも演劇を専攻するが、長女シャロンの誕生により休学、劇場で演出の仕事をしたり、テレビ局で裏方として働いたりした後、大学院へ戻り修士号を取得する。

舞台演出から映画監督への道

53年に次女クリスチャンが誕生し、生活費を稼がなければいけなくなったペキンパーは、独立プロデューサーのウォルター・ウェインジャーに会いに行き、彼が製作していたドン・シーゲル監督映画『第十一号監房の暴動』(54)に、スタッフとして参加することになる。シーゲルにその才能を認められた彼は、『地獄の掟』(54)、『USタイガー攻撃隊』(55)、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56)、『暴力の季節』(56)という4本のシーゲル作品で監督助手をつとめる。『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』では、脚本の一部リライトにも協力し、さらに端役として出演もしている。これら以外にも、後に『昼下りの決斗』で組むジョエル・マクリー主演、ジャック・ターナー監督『法律なき街(WICHITA)』(55)をはじめ、多くの作品の製作に携わる。
やがて、シーゲルが製作前に降板したテレビシリーズ『ガンスモーク』の脚本を手がけるようになったペキンパーは、それを機にテレビシリーズの西部劇『ライフルマン』で演出家としてデビューする。このシリーズでは4話を演出し、ここでR・G・アームストロングやウォーレン・オーツとも出会うことになる。以後『風雲クロンダイク』『遥かなる西部』などのテレビシリーズを手がける。
56年、三女メリッサ誕生。60年、父を喪う。

映画監督デビューから「扱いづらい監督」の烙印

60年、『荒野のガンマン』でついに映画監督としてデビューを果たす。翌61年に長男マシューが誕生するも、62年に妻マリーと離婚。監督第2作『昼下りの決斗』を発表。ブリュッセル映画祭映画批評家協会グランプリをはじめ数々の映画賞を受賞するなど、西部劇の新たな担い手として認められる。テレビドラマの演出を手がけた後、コロンビア製作の大作西部劇『ダンディー少佐』に取り掛かるも、予算やスケジュールよりも映画の出来を何より重視する姿勢により製作者と対立、映画の最終編集権を奪われてしまう。本作はペキンパーが手がけた4時間36分のバージョンから1時間57分に短縮されて、残りのネガが破棄されたため、再編集も不可能となってしまう。この件により、ペキンパーには「扱いづらい監督」というレッテルが貼られるようになる。また本作で知り合ったメキシコ女優ベゴニア・パラシオスと64年に結婚するが半年もしないうちに離婚(彼女とは計3回結婚することになる)。
その後MGMでスティーヴ・マックィーン主演『シンシナティ・キッド』(65)の撮影に入るも、わずか4日後に解雇。これにより、ペキンパーはハリウッドにおいて完全なる問題児として烙印を押されてしまう。不遇の時代は68年まで続くも、その間にも『闘うパンチョ・ビラ』(68)や『栄光の野郎ども』(65)の脚本を書いたり、高く評価されたテレビドラマ『昼酒』(65)の演出を手がけたりと細々と仕事を続けていた。

代表作『ワイルドバンチ』の成功

そうして68年、ワーナー製作によりついに伝説の映画を手がけることとなる。最後の西部劇とも呼ばれる『ワイルドバンチ』は、公開当初より、アメリカだけでなく全世界で話題となり、サム・ペキンパーの名前を一躍世界に知らしめた。こうして不遇の時代を抜けだしたペキンパーは、本作の編集作業中に、再びワーナーで『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』製作に入る。本作は、監督自身「おそらく私のベストフィルム」だと述べている。
71年、ダスティン・ホフマンが差別意識のはびこるイギリスの片田舎に引っ越した数学者を演じた『わらの犬』を監督するも、過度な暴力描写が賛否両論の議論を呼び起こした。この頃よりペキンパーの飲酒量はさらに度を越すようになる。立て続けにスティーヴ・マックィーン主演、ロデオ大会に出場するため故郷に戻る男を主人公にした『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』(72)を監督。いくつか企画を逃したあと、同じくマックィーンを主演にギャングに脅され銀行強盗をするはめになった夫婦の逃走劇『ゲッタウェイ』を製作、同作は興行的大ヒットを記録する。

70年代以降の困難な道のり

72年より、当初モンテ・ヘルマンが企画を進めていた『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』の監督を引き受ける。若きボブ・ディランも出演した本作だが、製作会社のMGMとの対立は深刻なものとなり、編集権を取り上げられたうえ冒頭とラストを切られるという無残な結果を生む。73年、メキシコでウォーレン・オーツ主演の『ガルシアの首』の撮影をスタートさせる。この頃よりコカインの摂取が始まる。74年にベゴニアとの間に娘ルピータが生まれるが、認知をしないまま仲たがいする。75年、暗殺結社の腕利きエージェントたちの闘争を描いた『キラー・エリート』を監督、製作者や脚本家とはまたも対立するが、格闘シーンの編集を手がけたモンテ・ヘルマンとは良好な関係を築く。同年、ドイツ人製作者に抜擢されユーゴスラビアで『戦争のはらわた』の撮影開始。だが製作者の資金が枯渇し、製作は困難を極めた。
77年、EMI製作によりクリス・クリストファーソンが大型トラック運転手を演じた『コンボイ』を監督するが、コカイン中毒に陥っていたことも影響し、莫大な予算超過とスケジュールの遅延を招き、最終的にEMIが編集し完成させた。 79年、心臓発作で入院。ペースメーカーを埋め込まれる。だが退院後もアルコールとドラッグを断ち切ることはできなかった。81年、ドン・シーゲルの遺作『ジンクス!あいつのツキをぶっとばせ!』のアクションシーン第二班監督をつとめる。82年にようやく『バイオレント・サタデー』で監督復帰。
83年に母を喪う。その後ようやくコカインと酒をやめ友人たちとの関係も修復するが、84年、旅先のメキシコで倒れ昏睡状態に。12月28日、59歳の若さでこの世を去った。

【監督作品(長編映画)】
1961年 『荒野のガンマン』
1962年 『昼下りの決斗』
1965年 『ダンディー少佐』
1966年 『昼酒』(TV映画)
1969年 『ワイルドバンチ』
1970年 『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』
1971年 『わらの犬』
1972年 『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』
1972年 『ゲッタウェイ』
1973年 『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』
1974年 『ガルシアの首』
1975年 『キラー・エリート』
1977年 『戦争のはらわた』
1978年 『コンボイ』
1983年 『バイオレント・サタデー』

参考文献:e/m books vol.10『サム・ペキンパー』(遠山純生編、エスクァイアマガジンジャパン、2001年)

CAST

シュタイナー役|ジェームズ・コバーン
James Coburn

1928年8月31日、ネブラスカ州ローレル生まれ。カリフォルニア州コンプトンで育つ。父親はスコットランド系アイルランド人の血筋で、母親はスウェーデン移民。50年に合衆国陸軍に入隊し、トラック運転手を務めつつ、時々テキサス州の陸軍ラジオ局でDJとして活動した。除隊後、ロサンジェルス・シティ・カレッジに入学し、ジェフ・コーリーやステラ・アドラーから演技を学ぶ。その後、起用されたレミントン社製電気かみそりのCMでは、11日間かけて伸ばしたひげを一分以内にそり落としてみせた。59年にバッド・ベティカー監督『ライド・ロンサム』(未)で映画に初出演。同じ頃より、西部劇を中心にさまざまなTVドラマ・シリーズに出演し始める。60年代から70年代にかけては、西部劇やアクションものでタフガイ的な/あるいは喜劇で飄々とした持ち味を活かしたコミカルな役柄を数多く演じて人気俳優となる。なかでもジェームズ・ボンド映画のパロディ『電撃フリントGO!GO作戦』(66)では前記二つの特性を併せ持ったタイトルロールを演じて一躍ドル箱スターの仲間入りを果たした。ペキンパーと初めて組んだのは、『ダンディー少佐』(65)。以後、『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(73)、『戦争のはらわた』で組み、『コンボイ』(78)ではコカインとアルコールで健康を害していたペキンパーに代わり、第二班監督としてかなりの場面を演出したとされる。また『戦争のはらわた』日本公開時には宣伝のためにペキンパーと共に来日、前者の演出で大東紡(現:ダイトウボウ)株式会社の紳士服「ロッキンガム」のCMに出演した。1980年代以降は深刻な関節リウマチに悩まされ、出演作も極端に減ったが、亡くなるまで映画俳優業は継続した。『白い刻印』(ポール・シュレイダー、98)でオスカー助演男優賞を受賞。2002年11月18日、心臓発作によりカリフォルニア州ビヴァリーヒルズにて死去。

シュトランスキー役|マクシミリアン・シェル
Maximilian Schell

1930年12月8日、オーストリアのウィーン生まれ。母親は演劇学校を経営する女優、父親は詩人・小説家・劇作家・薬局経営者だった。姉は女優のマリア・シェル。三歳のときに初舞台を踏む。その後、ナチによるオーストリア併合から逃れるべく、一家は38年にスイスのチューリッヒに移住。幼い頃から読書家で、10歳のときに初めて戯曲を執筆。子どもの頃は画家・音楽家・劇作家を志望していた。チューリッヒ大学で一年学んだ後、第二次大戦終結後にドイツに移住、ミュンヘン大学に入学して哲学と美術史を学ぶ。その後チューリッヒに戻ってスイス軍で一年間兵役に就き、次いでチューリッヒ大学に再入学して一年間学び、さらにバーゼル大学で半年間学んだ。この時期にプロの俳優として古典劇・現代劇を問わず端役で舞台に出るようになり、学問ではなく俳優業に専心しようと決意する。ドイツ製反戦映画『戦場の叫び』(ラズロ・ベネデク、55)で映画デビュー。ヨーロッパで数本の映画に出演した後、ブロードウェイ劇への出演を打診され、渡米。『若き獅子たち』(エドワード・ドミトリク、58)でハリウッド映画に初出演。この作品と同じく第二次大戦ものであるTVアンソロジー・ドラマ・シリーズの一挿話『ニュールンベルグ裁判』(59)とスタンリー・クレイマー監督によるその映画版(61)に出演。後者ではオスカー主演男優賞を受賞。ドイツ語話者の俳優としては、戦後初の受賞者だった。70年代にはハリウッドでドイツ語をしゃべる俳優が少なかったこともあって、ナチ時代を背景にした作品で(ドイツ人として)主演級の役柄を演じることが多かった。そのうちの一本が『戦争のはらわた』である。だが、キャリアを通じてナチの軍人のみならずユダヤ人も演じた。『初恋』(70)や『殺意の行方』(77、VHS発売のみ)など監督作を何本か発表しており、マレーネ・ディートリッヒをめぐる記録映画『MARLENE/マレーネ』(84)の監督も手がけている。2014年2月1日、オーストリアのインスブルックで死去。直接の死因は肺炎だったとされる。

ブラント役|ジェームズ・メイソン
James Mason

1909年5月15日、英ヨークシャーのウェストライディングにある街ハダースフィールド生まれ。父親は富裕な織物商人だった。まずモールバラ・カレッジ、次いでケンブリッジ大学で学ぶ。ケンブリッジ在学中(建築を専攻し、成績はトップだった)、レパートリー劇団に参加。正式な演劇教育を受けず、余暇に趣味として演技を始めた。卒業後、31年に初舞台を踏む。次いで、ロンドンのオールドヴィク・シアターでタイロン・ガスリーの指導を受ける。33年にはアレグザンダー・コルダの監督作『ドン・ファン』(34)に端役で起用されるが、三日でクビにされる。35年から38年にかけては数多くのいわゆる“クオータ・クイッキーズ(割り当て急ごしらえ映画)”と呼ばれる低予算早撮り映画で主演を務めた。第二次大戦時には良心的兵役拒否者となり、おかげで家族からはその後何年も勘当扱いにされる。40年代前半にはゲインズバラ・ピクチャーズで製作された一連のメロドラマで陰鬱なアンチヒーローを演じ、一躍人気俳優となる。次いで主演した『第七のヴェール』(コンプトン・ベネット、45)と『邪魔者は殺せ』(キャロル・リード、46)が大ヒットし、国際的にも認知される。『魅せられて』(マックス・オフュルス、49、DVD発売のみ)でハリウッド映画に進出。以後50年代を通じて活動の中心をハリウッドに移す。63年にはスイスに移住し、欧米の映画に出演し続けた。「物憂いが熱のこもった」独特の声を活かした、恐ろしげな悪役や道徳観念のない腐敗した人物役も得意とし、『五本の指』(ジョゼフ・L・マンキーウィッツ、52)、『スター誕生』(ジョージ・キューカー、54)、『黒の報酬』(ニコラス・レイ、56、DVD発売のみ)、『北北西に進路を取れ』(アルフレッド・ヒッチコック、59)、『ロリータ』(スタンリー・キューブリック、62)、『評決』(シドニー・ルメット、82)などでそうした役柄を演じた。1984年7月27日、心臓発作によりスイスのローザンヌにて死去。

エヴァ役|センタ・バーガー
Senta Berger

1941年5月13日、オーストリアのウィーン生まれ。父親は音楽家、母親は教師。四歳のときに、初めて人前で歌を披露する(ピアノ伴奏は父)。その翌年にバレエのレッスンを開始。次いで演技の個人教授も受け始め、50年頃からエキストラとして映画に出始める。初めてクレジットを与えられたのは、ヴィリ・フォルスト最後の監督作の一本にあたる“Die unentschuldigte Stunde”(57、未)においてだった。ウィーンの有名な演技学校であるマックス・ラインハルト・セミナーに入学するが、学校の許可を得ずに映画への出演依頼を受けたことが原因で間もなく退学。58年には、ヨーゼフシュタット劇場の最年少メンバーとなった。その後、ドイツやオーストリアで喜劇映画やミュージカル映画に数本出演するが、間もなくそれに飽いて62年に渡米、以後連続的にハリウッド映画に出演。この頃に『ダンディー少佐』(65)で初めてペキンパーと組む。並行して合衆国のテレビドラマに何本か出演しつつ、ドイツ映画やイタリア映画やフランス映画にも出演した。63年にドイツ人監督ポール・ファーホーフェンの息子ミヒャエルと出会い、65年に共同で映画製作会社を設立(そして翌年に結婚)。71年に自身の会社で製作し、夫が監督した“Wer im Glashaus liebt... ”(未)で初めて映画に主演する。二人の息子が産まれたのをきっかけとして舞台の仕事を再開し、ウィーンやハンブルクやベルリンで舞台に立つ。74年から82年にかけて、ザルツブルク音楽祭でホーフマンスタール作『イェーダーマン』の“恋人”役を演じ、クルト・ユルゲンスやマクシミリアン・シェルらと共演。この時期に、ペキンパーと久々に組んだ『戦争のはらわた』にもシェルと共に出演(共演場面はない)。ペキンパーが脚本を執筆した『栄光の野郎ども』(アーノルド・レイヴン、65)にも出演した。2006年にはドイツで回想録を刊行、合衆国で出会った浅はかなハリウッド人種にかんする暴露話も綴られているという。現在もドイツを中心に映画やテレビに出演し続けている。

キーゼル役|デヴィッド・ワーナー
David Warner

1941年7月29日、英マンチェスター生まれ。ユダヤ系ロシア人の血を引く父親は、ナーシングホームを経営していた。婚姻外出産で産まれた子だったため、父と母(薬物とアルコールの問題を抱えていた)に交互に育てられ、最終的に父と継母のもとに落ち着いた。ロンドンの王立演劇芸術アカデミーに学ぶ。62年1月に、ロイヤルコート劇場で初舞台を踏む。トニー・リチャードソン演出によるシェイスピア『真夏の夜の夢』のスナウト役であった。翌63年4月には王立シェイクスピア劇団に入団、65年に王立シェイクスピア劇場で上演された『ハムレット』で、初めてタイトルロールを演じる。63年にリチャードソン監督『トム・ジョーンズの華麗な冒険』で映画デビュー。同作で演じたブリフィ役を始め、『39階段』(ドン・シャープ、78)、『タイム・アフター・タイム』(ニコラス・メイヤー、79)、『バンデットQ』(テリー・ギリアム、81)、『トロン』(82)、『ハンナ・セネシュ』(メナヘム・ゴーラン、88)など、悪役を演じることも多い。最初に広く注目を集めた出演映画は『モーガン』(カレル・ライス、66)で、同作で演じた若者役に備わった少々常軌を逸した性質は、ペキンパーと初めて組んだ『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』における牧師役にも引き継がれる(『モーガン』は、ペキンパー気に入りの映画の一本だ)。ペキンパー作品には計三本出演しているが、出演する度にタイプの異なる役柄を演じており、『わらの犬』(71)では無害な発達障害者、『戦争のはらわた』では「ナイスガイ」的なインテリのドイツ人将校を演じている。ドイツ人役ではほかに、映画とテレビで二度にわたってユダヤ人大量殺戮を推進したラインハルト・ハイドリヒを演じた。わが国では『オーメン』(リチャード・ドナー、76)の、不幸な死に方をするフォトジャーナリスト役もよく知られているだろう。2001年には、およそ30年ぶりに舞台に返り咲いた。以後、舞台・映画・テレビのみならず、朗読劇やアニメーションの声優としても活動し続けている。

(執筆=遠山純生)

THEATER

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四国・中国 岡山市 シネマ・クレール 近日公開
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  松山市 シネマルナティック 近日公開
九州・沖縄 福岡市 KBCシネマ 近日公開
  那覇市 桜坂劇場 近日公開